昭和五十七年 七月十六日 朝の御理解

御理解 第三十七節 
 生きておる間は修行中じゃ。ちょうど学者が年をとって
 も眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。

昨夜は富久信会でございましたが、皆さんの発表を聞き終わらせて頂いた時に、神様から「草笛」という事を頂いた。結局、自然のリズムというかもう一人一人のお話が確かにそうでした、本当に自然のリズムに乗ってのお商売、皆なお商売人ばかりですからね、本当に本当に有り難いなと思はせて頂いたが、例えば、普通から言うたら有り難くない事でも、そこにサンキューという数字を頂いただけで途端に有り難くなったといったようなお話しなんです。だから信心とは、一切神愛論と言われるのですから、一切の事が御礼を申し上げる事ばっかりなのですけれども、人間の我情がで我欲が出て、例えば損をするともう損をしたというて、その事に対しても御礼が言えない、けれどもそこにリズムに乗っておると良いこと、悪い事につけてリズムに乗っての生き方ですからね、いわゆるサンキューという数字を頂いただけで有り難くなったというのです。
 信心はね、確かに合楽にご縁を頂きますと、そういう一つの天地との関わりあいというか、天地との働きあいが段々密になっていくんですよね、ですから、普通で有り難と思えない事でも有り難いと思えるし、成程、有り難いと思う受け方こそがおかげの受け物であり、また神様の心にも通うていくものである。御礼を申し上げねばならない事に、不平をいう不足をいうというような事が無くなって来るんです。これがですね合楽にちょっと傾倒しだして合楽の信心の、有り難い事が段々分かってきた。初心の人ほど、信心というものが有り難いものだ、楽しいものだというふうにわかる感じでしたね、少し信心が巧者になるというか、少し詳しくなってくるというか、やはり今日の御理解ぢゃないけど、一生が修行ぢゃというような修行に取り組んでないです。
 いいえ私は毎日参りよりますという事だけが修行じゃないのですよね、日々の教えに取り組むという事、それが自分の一家自分の全店の上にその修行の、ま店なら店の一つのタイプが出来るとでも申しまそしょうか段々信心を高めていかれると、なにか暫新な喜びが欠けてくるむきがあるけれども、本当にその事を修行として取り組んでる方達は、いよいよ信心が、いわゆる信心の精進がたまものと言われるようにね、おかげが一段一段あか抜けして行くし、おかげ受けておられます。これは何の稽古でも同じで稽古が少し身についてくると、やっぱおもしろうなる、楽しうなる、けれどもけしてそんな、楽しいとかおもしろいという事ばっかりじゃない、ちった難しい所にも入っていかな。
 そのころに信心が迷いが起こったり愚図愚図したり、または酷いのになると、信心をやめたりという事になるのです。一生が修行じゃ、その修行もだから段々本当な修行へ本当な信心へと進んで行くための修行でなからなきやならん、いつも同じ苦しい修行ばっかりではおかしいとおもうです。お金が足りないお金足りないというような修行がいつまでも続いたような事ではいけないでしょうが。お金の苦労とか健康だというのは、本当におかげを頂いておる、けれどもああいう修行というものは限りがないもの、昨夜、加藤さんのお話を聞いて感心した事ですけれども、電器器具の商いをなさっておられます。
 会社からでも大変認められる、その実を上げておられるお店なんです、いわゆる合楽理念に基ずく実験実証を日々なさっておられる、昨日私はその加藤さんのお話を聞きながら、思ったんですけれどもははぁ加藤さんの一つの御流儀というか、加藤さんの信心の行き方というものが、子供達にも店員一同にも行き渡っていきよるなあ、成程おかげ頂く秘密はこの辺にあるなと思いました。というのは息子さんが信心はございませんけれども、いつも、いうなら面倒臭いお仕事でしょうね、ただ修繕とか修理といったような事ばかりに、ま、ところがそこのお得意さんが器具類はもう一切どっか他のところで買われるそうなんです。
 修繕やら面倒臭いのやらは、加藤さんところに持ってくる、したら今だそこの御主人が言われるのに、私はあんた方には感心したという、とにかく、あがしこいろんな面倒臭いお願いはするけれども、それを本当にスムーズにやってのけて、そしてこれはいっちょ買い直しなさらんかという事を一遍も言うた事はない、あんた方ん息子は、もう、これには感心した、これからは、もうあんた方に決めるといはれたという話を聞きました。ね、主人である加藤さんの信心が子供にも従業員の上にも、家の行き方はこれだぞ、無理に進めたらだめだぞ、ただ売らんならんからの為に、これはもうまあいっときだんつかわれんというものでも、もう、これはだめですばい、新しく買いなさいといや素人は、それに乗って買うかもわからない、けれどもこれは、信心で行っておられる、ね、充分使われるだけは使う事、その事を信条として、それを、子供にも従業員にも行き渡っておるという事です。
 自分の方の、いうならば信心の御流儀は行き渡っておって、そして相手をして、なら、これからはあんたん所から一切もとめさしてもらおうといったような働きになってくる、そういうおかげでなからなければ、本当なおかげぢゃないと思うですね。商売が上手でどんどん売るというだけでは、おくり合わせを頂くというだけではね、お互いの信心の中にもですよ、いうならば家庭の中に、自分だけ信心で行こうというなら、店員が信心でない事を言うたりしたりする、それで壊れてしまいますからね、有り難い、そこで私が、昨日皆さんに申しました事でしたけれども、本当にこのリズムに乗っての行き方を身につけて行かれる、体得さるという事が素晴らしい有り難いとは思えない事でも、いうならばリズムに乗った時にその事、事態が御礼申し上げる事になる。
 御礼を言える事になる、それが自分の一家、自分のみせ一店一家というだけではなくて、その祈りというものが、願いというものが大きくなっていかなきゃならん。最後に正義先生がお話をしておりましたが、自分の信心の見極めどころというものが、一新一家の事ぢゃない、教会を中心にした祈りと自分の信心修行の在り方というものが一つなって進んでいっておる、私は信心の輪を広げていくとか大きくしていくと、いう事は結局祈りの内容でわかると思うです、ですからこういう大変な事を願っておるのだから、ただそれに対する修行もまた当然という事になる、ただ自分の事だけ自分一家の事だけが願いの中心であったんでは修行もね本当に取り組まないです。
 ただお願いします、お願いしますばかりで修行に取り組もうとしないですね、それが段々信心が、五年十年になってくると、そういうところに落ち込む向きがあるんです、自分の信心を進めないから、修行もその辺で終わってしまって、いうならばそのリズムすらも聞こえんようになってくるです、それが新しく、いうならば合楽の信心に傾倒しだした人達の場合なんかは、実に見事にリズムに乗った行き方というそのリズムに乗っておかげも、また頂いておられる、そのおかげがいよいよもっと豊かな大きなものになる事の為に信心が豊かに大きく育っていかなきゃならない。
 私は今の、夏期信行の始まった日に皆んなが一生懸命ああして修行なさいます、だから、その修行の大体目的というか、各自各自にありましょうけれどもとにかく、合楽の一時の信行は、実に見事ですよね。もう一時の御祈念が始まる時には、ここ一杯にみんなほとんどの方がお届けをおわっとります、五分遅れた十分遅れたという人はないんです、だから早い人は一時間も前から来て御理解を頂いたりお届けを終わっております、これだけは本当に素晴らしいと思いますね、終わってからどんお届けするのはもう何かおかしいごたる感じです、もうみんなお届けをなさっておられる、ま、そういうようなふうですが神様はあの修行はどういうふうに思っておられるかというと、「しつけ」と頂いた。
 あれは皆さん信心のしつけを頂いておられるんです。神様がただおかげを頂けばというようなものではなくて、信心が育つていく為には段々信心のしつけができる、これはそこそこの教会によって先生のしつけのよかとこの信者さん方は実にやっぱり信心の行儀がいいです、キチットした在り方が育つしつけがよい、合楽の皆さんの場合もです、あの一時の御祈念の時のような、あの、あれが神様からしつけを頂いておるんだと、いうような事を皆さんが感じられるようになる実際しつけを受けておられるわけですけれども、それがあの、常日ごろの信心の上にもキチットとしたものが表れてくるようになる。
 という事ですからおかげもキチットしてくる、もしキチットしてこないならば自然のリズムに乗り損ねておる、修行不足である事をわからしてもろうて、ね、なら、始めの間は何の稽古でも少し覚え出すとおもしろいね、そういう方達のま、昨日は話を中心に大体聞いたように思うです、富久信会ね、そして段々なら加藤さんのお話やら、むつやさんの話やら、久富正義先生あたりの話を聞いていくうちに信心が段々高度になっていって、その高度になっていかれる信心の修行もそれに相まっていっておるという事です。ところが初めの間はようおかげ頂いたばってん、このごろはすっかりおかげ頂かんようになったという人があります。
 それは結局自分の信心を進めようとしないからです、五年たっても十年たっても同じ事いうなら今日の御理解のごつ、一生が修行ぢゃという事がです、意味がわからなくなってその修行の程度も厳しうなるとか、そういう事じゃなくてね、いよいよ有難い大きな、いうならば間違いのない修行ができてくる、一時の御祈念に皆さんがそれこそ時間もたがえず、キチットとした信心の姿勢というか、構えが形の上で出来てくるというか形の上で、いうなら、しつけを頂いておられるのですから、それがなら自分の家業の上にもです、お仕事の上にもです、ああいうキチットした、信心のしつけを頂いたそのしつけは、そのままに家庭の上にでも商売の上にでも現していけれるようなった時に、初めて本当のおかげまた、お徳にもなっていくというふうに思います。
 まず、しつけを受けておる事が有り難いですね、同時に合楽でこれはまあ独壇場のように言われるもう本当に、初めの初心の方がですね、少し合楽の信心に傾倒しだして、そのそれを実験さしてもらうと、必ず実証が生まれて来る、いうならリズムが出て来る、ですからきつい事もきつくない、いうならば有り難くない事でも、有り難くなるというような働きを受けながら信心を進めていく、そういう修行もまたですね、少しはまた、だから難しい事にも取り組ませて頂く修行がいるんじゃないでしょうか。初めの間はみやすい、それが段々いうならば大きく育っていっておるという事を分からせてもらうとです、成程一生が修行じゃと仰せられる。
 学者が眼鏡をかけて、それでもやっぱり本を読むようなものであろうぞいとおっしやるように、いうなら信心の力が徳がついていく事が楽しいから修行をするというような、おかげを受けるから修行するというところから、そういうふうに育ってまいりますと、信心はやめられない、いやもういよいよ信心が有難い、尊いものになってくると思うですね。
                            どうぞ